父と母へ贈った『奇跡の9年間』のアルバム

先日、父親の誕生日にアルバムをプレゼントしました。

内容は、2016年から2023年までの、父と母と、彼らの家族が一緒に写っている写真をまとめたもの。

アルバムは、富士フイルムの銀塩プリントのハードカバー24P。インクジェットプリントとは違い、保管条件が良ければ100年持つ、高耐久素材で作成しました。

受け取った母からはこんなLINEが。

正直なところ、このアルバムを作りながら、僕は涙を堪えることができず、泣きながら作っていました。生きていてくれてありがとう、そんな感謝の涙だったように思います。

家族の絆。信頼と愛情、そして父と母の生きた証。

それらは普段、感じることはできても、直接この目で見ることはできません。しかし、写真に写し取ることで、そこには明らかな変化が浮かび上がる。

良ければあなたに、アルバムに掲載した写真とともに、少しだけ、僕の写真が家族にもたらした感動をお伝えさせてください。

目次

予想だにしなかった第二の人生

僕の父は、9年前、事故で瀕死の重傷を負いました。

それは皮肉にも、定年退職した父が「これから何をしようかな、鎌倉にでも行こうか」と第二の人生の計画を母とねっていた矢先のことでした。

忘れもしない、2016年2月22日。

母からの連絡で、「お父さんがもう駄目かもしれない」と。

急性硬膜下血腫。頭蓋骨の中に血が溜まり、脳を圧迫してしまう非常に危険な状態で病院に運び込まれました。父は病院のベッドに、見たことがないほど無数のチューブに繋がれ、意識はしばらく戻りませんでした。

どうしてこんなことに?
訊くと、頭を打って血を流したまま、雪の中に4時間以上倒れていたところ、朝の新聞配達の人が見つけて救急車を呼んでくれたそうです。

病院に駆けつけた家族は、「1ヶ月持たないかもしれない」と医者に宣告されました。覚悟はしていたつもりでも、理解が追いつきませんでした。

病院の中で撮影は禁止されていることは知ってはいたものの、僕はなぜかスマートフォンのカメラで父の最後になるかもしれない姿を撮影したのが、この写真。

それでも父は、驚異的な生命力で九死に一生を得ました。
家族はほっと胸をなでおろしましたが、問題はそこから。

命をつないだ父を待っていたのは、自力で起き上がることもできない全身麻痺と、高次脳機能障害という後遺症。奇跡的な復活劇に心から感謝はすれど、未知の状況を前に、僕ら家族は戸惑うばかりでした。

生まれ変わった父

父は脳神経外科に入院し、長い間ICUにいました。様態が安定しても意識は戻らず、目が開いているのに目が合わない、いわゆる植物状態が数ヶ月続きました。

幸いなことに病院は実家からほど近かったので、母は毎日父の看病へ。

不安に締め付けられるような日々だったと思います。でも、高校生の頃に実父を亡くした母はたくましく、さすがにやつれていたものの、以前の明るさまでは失っていませんでした。

父は植物状態から徐々に意識を取り戻し、指先を動かせるようになりました。

が、脳の障害からか記憶を失っており、母も姉も僕のことも忘れてしまっていました。

「あんた、誰だ」

何の気もなく放った父のその一言ほど、僕の心をえぐったことはかつてありません。父が僕たちを見る眼は、本当に赤の他人を見るような、怪訝さを滲ませていました。

今までの父との全てのやり取りが走馬灯のように頭を駆け抜けました。僕が手を握っている人が、父ではなくなってしまったような、想像を絶する喪失感。


それでも、生きている。
生きてくれている。


それだけでも嬉しかったんです。
もう二度と見ることはできないと覚悟していた父が、息をして、こちらを見ている。

本人が覚えていようとなかろうと、目の前の人は、紛れもない僕たちの「お父さん」だったから。
何より、この状況になって一番苦しいのは、きっと父本人に違いないはずです。


看護師さんたちは「言葉を喋れるようになっただけでも奇跡だ」と口を揃えて言います。
気休めではなく、たくさんの命の現場を見てきた彼らが言うのであれば、きっとそうなのでしょう。


半年以上の入院生活を経て父は無事退院しました。
僕らは、少しずつ良くなっている父の状況に一喜一憂しながら、時は流れていきました。

父を蘇らせたもの

父の事故から、およそ2年が過ぎた頃。

また少し身体が小さくなったように見えた母は、フルタイムの介護できっと想像以上に疲弊していたのだと思います。

それでも、父との人生を歩むことを決めた彼女の意志の強さは、笑顔の灯火を絶やすことなく、必死に生き抜こうとしている。母はやはり偉大です。


そんな折、姉が第一子を出産し、父に顔見せにきていました。女の子でした。


初めての孫を抱く父の顔に浮かぶ笑顔。
退院してしばらく、表情を失って苛立っていたように見えた父の笑顔。
少しずつ、父も自分を取り戻しつつあるのかな、そんな淡い希望を感じる表情でした。

孫パワーってすごいな…。

調子が良いときは、抱っこして、その小ささと暖かさに僕らが想像している以上の感動を全身で感じていたに違いありません。

とはいえ、記憶に障害を抱えていることに違いはなく、ONとOFFの激しさに振り回されることも多々ありました。OFFのときはまるで別人格です。

怒りっぽく、話が通じない。重度の半側空間無視、記憶障害、作話、遂行障害、固執など。でも力が強いので母は本当に苦労していました。

それでも古い記憶は驚くほどしっかりしているようで、「ベルギーの首都は?」と聞くと「ブダペスト」と一瞬で返ってくる。少しずつですが、家族は、そんな父の変化を楽しむゆとりも生まれてきました。

ついに結婚式へ

退院して間もなくの父は、車椅子に長時間座るだけで疲れ切ってしまい、毎日ほぼ寝たきりに近い状態でした。

「娘の結婚式に出るんでしょう!頑張れ」

母はそう叱咤激励して、父が少しでも長く車椅子に座っていられるよう、リハビリの先生と一緒にトレーニングに励んでいました。

姉は、父が倒れた年に結婚しましたが、父がそんな状態だったので結婚式は延期し続けていました。

きっと、回復した父に、花嫁姿を見せたかったからです。でも、結婚式は長時間行うもの。排泄も一人でできない、長時間座っていると意識が朦朧としてしまう。そんな父が式を乗り切れるかは、正直不安でした。

しかしついに、退院してから3年後、姉は結婚式を行いました。
もちろん、父も母も出席し、最後ぐったりとなるまでやり切ってくれたんです。

昔は誰よりもおしゃべりだった父。詰まる言葉を必死に繰り出しながら、娘に恥をかかすまいと頑張って挨拶をしている姿。忘れもしない、僕はこのとき泣きながらシャッターを切っていました。

なぜか父は、古い友人や、親戚など、家族以外の人間と話すときは、以前のように流暢に話すことができました。原理はまったくわかりません。

でも「おう、元気か」と笑って話す父は、やはり少しずつ自分を取り戻そうと彼なりに努力しているように見えました。

自分を取り戻す旅路

これは少し適切ではない表現かもしれません、

でも思ったことを素直に書きます。

自分に子どもが生まれてよくわかったのですが、父が時折見せる不可解な苛立ちやあやふやな言動は、2~3歳児のそれと良く似ています。

ダメと言われてもやってしまう。
感情をあまりにも素直に暴露する。
機嫌の良いときは、とにかく笑顔。

まるで赤ちゃんみたいだ、と言う僕の言葉に、特養(特別養護老人ホーム)で20年以上働くベテランの妻もうなづく。また妻曰く、「100歳越えたおばーちゃんは、赤ちゃんみたいで可愛い」のだそう。

そして乳幼児が少しずつ言葉を覚え、歩けるようになっていくのと同じように、父も箸の使い方を覚え、食べ物の味を理解し、会話も増え、自分の足でトイレに行けるようになり、自分の足でベッドにいけるようになりました。

とはいえ支えがないと転倒してしまう危険性があるので介添は必須です。“あの頃”と比べれば考えられないくらいの進歩です。

ただ調子が悪いときは徘徊老人になってしまったり、母の促しも頑として受け入れず、路上でフラフラ寝てしまったこともあります。それは本当に辞めて欲しいのだけど、それも頻度は減っていくのだろうか、家族はハラハラして見ています。

家族が増えるに連れ、父の表情は本当に豊かになりました。

孫たちはちょっと変わったじいしゃんでも別け隔てなく、飛びついていく。それもまたたまらなく嬉しいのだろうなぁと、子どもたちには感謝しかありません。

きっと、孫たちの存在がなければ、父の“成長”は今よりももっと緩やかだったことでしょう。次いつ来るんだ?また来たのか?と、

心待ちにできる相手がいる日々は、きっと人生をより豊かにしていく。それは健常者も障害者も等しく「生きる意味」を実感できる瞬間です。


相手が居て、自分がいる。
自分が居て、相手がいる。

家族の一人ひとりが繋がっていて、お互いにエネルギーを分け与えている。その一つ一つは小さなものかもしれないけれど、こうやって時間をかけて何度も確かめ合い、折り重なっていく家族の歴史の中で、深まっていく。

普段は感じることしかできない時間を、
ふとした瞬間に生まれた弾ける笑顔を、
5年後にはきっと忘れてしまうふれあいを、

こうして忘れることなく記録しておける、写真。

だから僕は、写真が好きなんです。

最後のページの秘密

自分の備忘録のためにと書いたものですが、自分長くなってしまいました。

まさかここまで読んでくださっている方がいらっしゃったら、本当にありがとうございます。

このアルバムには、最後に僕からのちょっとした仕掛けを施しておきました。

、、といってもそんな複雑なものではなく、ある写真を載せたんです。

僕が子どもだった頃。父は今の僕よりも10歳も若かった。この写真には、28年前に亡くなった祖父の姿も。

一番最後のページには、まだ二人が結婚する前に撮られた写真を。

なぜこんなものを持っていたかといえば、13年前、僕の結婚式のプロフィールビデオを作ったときに素材として写真をPCに保存しておいたから。

まさか再び使う日が来るとは思わなかったけれど、どうしても伝えたかったこと。

それは、過去も、現在も、未来も、全ては繋がっていて、人生という名の「道の途中」にあるんだよ、と。


事故や障害で確かに環境は望まない方向に変わってしまったかもしれない。
そうじゃなかったらもっと楽な生き方ができていたかもしれない。
嬉しいことより辛いことのほうが多いかもしれない。

それでも、時間は進んでいく。
全ては、父と母、あなたたち二人が生きる長い道の上で起こっている。

その道は、二人が若かったあの日からずーっと繋がっている。
二人は家族の絆で結ばれている。祖父から父へ。父から僕へ。僕から、子へと。

ここまで歩いてこれた二人なら、きっとこの先も大丈夫。

だから頑張りすぎないで、いま起きていることも全ては途上の出来事。

決して平坦ではなかったけど、きっとかけがえのない時間だったでしょう?

だから安心して、忘れてもいいよ。
そのために、写真に残しておいたからね。

ありがとう、お父さん。お母さん。


これを読んでくれた、あなたにも、ありがとう。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次